新綱島検車区業務日誌

主に模型いじりの記録を、備忘録として。

【机上研究】快速「海峡」の編成について(その7)

今回は研究記事です。

昨年から不定期で、「快速海峡の編成について」と称して、かつて津軽海峡線で運行されていた快速「海峡」の編成考察を行っています。

 

バックナンバーはこちら:

【机上研究】快速「海峡」の編成について(その1) - 新綱島検車区業務日誌
 その1は実車研究。牽引機であるED79形について。

【机上研究】快速「海峡」の編成について(その2) - 新綱島検車区業務日誌
 その2は使用客車である50系について。

【机上研究】快速「海峡」の編成について(その3) - 新綱島検車区業務日誌
 その3は50系の編成パターンの考察(1988年~1994年改正)です。

【机上研究】快速「海峡」の編成について(その4) - 新綱島検車区業務日誌
 その4は50系の編成パターンの考察(1997年~2002年改正)です。

【机上研究】快速「海峡」の編成について(その5) - 新綱島検車区業務日誌
 その5は『JR気動車客車編成表』に基づく補遺・俯瞰的な記事です。

【机上研究】快速「海峡」の編成について(その6) - 新綱島検車区業務日誌
 その6は14系の概要を簡単に。

 

「その7」となる今回は、14系座席車の車両配置と運用の変遷を辿ります。

 14系座席車車両配置の変遷

登場から引退まで一貫して快速「海峡」のみに使用された50系5000番代とは異なり、14系500番代は「海峡」と共通運用の急行「はまなす」のみならず、「宗谷」「まりも」などの道内急行にも使用されていました。そのため、「海峡」の編成を考察する以前に、年代ごとに「その時代にどの程度の車両数を海峡に使用できたのか」を確認する必要があります。

ここではまず、配置区と車両数の変遷を確認してみます。

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14系車両配置の変遷(オハ14)

この表は、イカロス出版ブルトレ新系列客車のすべて』に掲載されている配置履歴表をもとに、14系の配置箇所の変遷をまとめたものです。各年4月1日現在の配置を表わしたものになっています。ざっくり緑色が札幌運転所、青色が函館運転所(→函館運輸所)、黄色が釧路運転所(現在の釧路運輸車両所)、オレンジが旭川運転所を表わします。

1988年以前と2003年以降は、急行「はまなす」廃止まで配置や車両数に変化がないようでしたのでざっくりカットしてあります。

見づらい表ですが、それまで全車が札幌運転所に所属していたオハ14が、1989年から複数の配置箇所に分散し、特に函館所属車には1989年、1993年、1999年の3回に分けてまとまった両数が転出していることがわかります。そして函館所属車の多くが、快速「海峡」が廃止された2002年までに廃車になっています。

 

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14系車両配置の変遷(スハフ14)

こちらは同様にスハフ14の配置をまとめたものです。両数が少ないからか、比較的シンプルに見えます。

 

さて、上2つの表は車番順に並べたものですが、車両の転配は必ずしも車番順に整理されて行われるものではないのでとても見づらくなってしまっています。

そこである程度グループ化して整理してみることにしました。それが下2つの表です。

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14系車両配置の変遷(オハ14)整理版

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14系車両配置の変遷(スハフ14)整理版

多少わかりやすくなったのではないかと思います。これを元に、これらの車両をどのように使用していたのか考えていきます。

なお、この記事で取り上げる内容は、引用元の資料そのものの誤り、私の解釈や資料作成上の誤り、その他さまざまな要因で事実と異なる可能性があります。車両研究される皆様はそれらに十分ご留意いただいた上で本記事をお読みいただければ幸いです。また、お手元の資料との矛盾点などがありましたらお気軽にお知らせください。

14系車両運用と配置の変遷

それでは、ここから年代ごとに14系の車両運用と配置の変遷を辿ってみます。

1987年3月の14系配置

まずは津軽海峡線の開通以前、国鉄民営化時点での運用を見てみます。

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14系定期列車組成表(1987年3月)

車両数は、もちろん14系500番代の全車が健在で、全て札幌運転所に配置されています。宗谷本線の昼行急行「宗谷」と夜行急行「利尻」、そして天北線経由の昼行急行「天北」は、効率的に車両を運用するために国鉄時代末期から共通運用が組まれており、夜行列車の「利尻」の前後運用となる下り「天北」と上り「宗谷」には、昼行列車でありながら寝台車がそのまま連結されていたことで知られます。

石勝線・根室本線経由で札幌~釧路間を結ぶ急行「まりも」にはなんと寝台車が5両も連結されており、同都市間の夜行需要の高さが窺える陣容です。

一番下の急行「大雪」は札幌~網走間を結ぶ列車です。この表では寝台車2両・座席車3両と記載しましたが、資料によっては寝台車を3両・座席車2両とするものもありました。

ここで取り上げたいのは、座席車の所属59両のうち、定期列車の所定編成に使用されるのは25両程度で、残りの35両ほどは余剰となっている点です。繁忙期と閑散期の需要増減が激しく、繁忙期の増結用や臨時列車に使用されるとはいえ、だいぶ余っている印象を受けます。

なおこの時期に運行されていた臨時列車には、函館~札幌間の夜行急行「すずらん」や、海水浴客向けに札幌~余市間で運転された快速「らんしま」などがあります。「すずらん」は翌年3月まで、「らんしま」は91年夏まで運転されていたようです。

1988年3月の14系配置

それでは本題の、海峡運転期の編成を見てみましょう。津軽海峡線が開業した、1988年3月のいわゆる「一本列島」改正です。

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14系定期列車組成表(1988年3月)

青森~札幌間に夜行急行「はまなす」が設定されました。所定編成は、オハ3両をスハフ2両で挟んだ5両編成となっていますが、もちろんこれだけでわけはなく、車両増結が常態化していたことはよく知られている通りです。

有名なエピソードとしては、改正初日の下り「はまなす」はこの5両編成を2本繋いだ形の10両編成で、当初半分の5両を途中の函館で切り離す予定が、トラブルによって終点札幌まで10両繋いだまま運転されています。*1当時は「はまなす」の函館以南にのみ増結車を連結する運用が行われており、この函館での増解結運用は2002年に快速「海峡」が廃止される頃まで続けられていました。

予備車としてはスハフ8両・オハ20両あり、一見潤沢に見えます。しかしこれらは「はまなす」のみならず他の各線の急行列車にも振り分けていたはずで、厳しい車両運用を強いられたことが窺えます。*2

この改正では、最大限に海峡線用に車両に振り分けるためか、単に需要が減少してしまったためか、まるで「はまなす」に吸い取られるかのように、他の定期列車には軒並み1~2両ずつの減車が実施されています。座席車の増結がギリギリになる一方で、オハネに関しては予備が10両に増加しており、これを活用して「宗谷」や「天北」などへの繁忙期増結に寝台車を座席車代用として使用していた記録*3があります。

さて本題の「海峡」ですが、「海峡」にはご存知の通り急行「はまなす」運用の間合いとして使用されていました。運用の流れは「海峡」運転期間中ほとんど変わることなく、次のような流れになっています。

深夜に札幌を出発した上り「はまなす」は早朝に青森に到着し、一旦青森運転所にて整備を行った上で改めて朝の下り「海峡」として青森に姿を表します。充当される「海峡」の号数は時期によって違いがありますが、深夜に再び下り「はまなす」として青森を出発するまでに、青森〜函館間を「海峡」として2往復する運用が組まれていました。

下り「はまなす」には青森発函館方面への最終列車としての役割があり、この区間のみの利用者も一定数存在しました。増結車の運用はこれを利用し、例えば早朝に上り「はまなす」へ函館から増結車を連結、そのまま昼間の「海峡」に使用した後、下り「はまなす」では函館止まりの車両として利用、函館で切り離すとその日に上がってくる上り「はまなす」に再び連結するなど、効率的な車両運用がなされていました。増解結のタイミングは上下の「はまなす」の函館停車時だけでなく、「海峡」として函館に来た時に行われることも多く、少ない車両数を最大限に効率化する努力が窺えます。

1988年11月の14系配置

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14系定期列車組成表(1988年11月)

津軽海峡線開業からおよそ半年後、1988年11月の組成です。稚内方面の昼行急行はキハ400系に置き換えられたため、宗谷本線の運用は夜行の「利尻」1往復のみになっており、特徴的だった昼行列車との共通運用は解消されています。この置き換えは昼行急行のスピードアップを意図したものと思いますが、これによって捻出される客車を海峡線方面に回すことも目的の1つだったのでしょう。

また、オハ14の座席をリクライニングシートに取り替えた「ドリームカー」が登場し、急行「まりも」の指定席車として運用されるようになりました。代わりに寝台車が2両に減車され、発生した余剰車を活用して「北斗星」用24系に改造する工事が行われています。

 

この頃下り「北斗星」の早朝利用者のために、函館〜札幌間でスハフを増結する運用が組まれていました。*4この送り込みは上り「はまなす」で行われたため、「はまなす」用増結車の連結作業がある日の函館では、函館方の「北斗星」送り込み車両を切り離す傍ら、青森方に「海峡」のための増結車を連結する作業が行われていたはずです。この「北斗星」用増結車にはスハネフが使用された実績もあるとのことで、ここにも車両のやり繰りの苦しさが表れています。

1989年3月の14系配置

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14系定期列車組成表(1989年3月)

前述の通り、余剰のオハネ14を北斗星用24系に転用改造した例があるため、前年と比較するとオハネ14の配置数が2両減少しています。

また、14系500番代の登場以降初めて他区への転属が発生し、スハフ4両とオハ8両の計12両が函館運転所の所属となっています。(函館車は表中薄い緑色で表記しています)

函館転属の理由ですが、この頃快速「海峡」では旺盛な需要を受けてフル編成(1989年から12両)への増結が常態化していました。以前「その3」でも書きましたが、この頃の「海峡」50系運用は4運用ありますので、50系の配置数39両からは全列車に対して12両編成への増結を行うことができません。そのため、1運用を14系で代走させることで、12両編成への増結車を捻出したものと考えられます。1988年時点でもこのような代走措置は行われていたかもしれませんが、1989年の函館転属によってそれがやりやすくなったものと思われます。

表では、「はまなす「海峡」の基本編成が7両に増強されているのを反映しています。一方、「利尻」は寝台車の所定連結数がさらに1両減少し1両のみになりました。もちろん繁忙期には増結が行われているはずですが、依然として寝台車ばかり余剰となっていることがわかります。

1989年10月の14系配置

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14系定期列車組成表(1989年10月)

この年、3月から7月にかけて相次いで北斗星向け改造車が落成しており、オハネ14の配置数はさらに減少して6両のみとなりました。一方でスハネフは1両も減っておらず、ここへきてスハネフとオハネの車両数が逆転するという面白い現象が起きています。

運用数については、大雪の寝台車が1両座席車に置き換えられているため、オハの予備が減ってオハネの予備が増えています。

特筆すべきは、初めて釧路に配置される車両が出てきていることで、スハネフとオハネが2両ずつ、ドリームカーのオハが5両、そしてスハフが2両の計11両が釧路に転出となりました。表中、釧路車の寝台車は濃い青色で、座席車は黄色で区別しています。

「まりも」用の車両を転出させた形ですが、ドリームカー1両を除いて予備車がありませんので、検査時や増結時は札幌車が代走したものと思われます。寝台車についてはこの後数ヶ月おきに札幌車と配置車両の交換が行われていますが、配置数に変化はないため個々の移動については割愛します。

1991年3月の14系配置

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14系定期列車組成表(1991年3月)

※表中「予備」欄のオハ14の配置について、「□×15」が余分に記載されています。ないものとしてお考えください。

さて、1990年を飛ばして1991年3月改正です。この改正では、「利尻」の気動車(キハ400)化このため、スハネフのうち3両に気動車併結対応化改造と方転が行われています。また、「海峡」の所定編成も6両に減車されました。これにより座席車に大量の余剰が発生し、所定編成基準での余剰車はオハ14で15両という数になっています。これだけあれば、各列車に増結を行っても余裕があるでしょう。14系座席車の車両不足は、ここへきてようやく解決を見たと言えるかもしれません。

ちなみに、「利尻」の気動車化と同じタイミングで「まりも」編成も方転が行われています。おそらく、今後「大雪」「まりも」用スハネフに対しても気動車併結対応化を行うにあたって一時的に減少するスハネフの予備車を「利尻」と共通にするための措置ではないかと思います。

なお、オハネの配置数はさらに減り、たった3両まで減少しています。この時生き残った3両はいずれも後に気動車併結対応化改造されることになりますので、オハネ14からの24系化改造はここで打ち止めということになります。

1991年7月の14系配置

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14系定期列車組成表(1991年7月)

さて91年7月は「はまなす」編成にとって大きな転換期となりました。

先述のオハネ14からの北斗星転用改造では、最後に改造されたのが北斗星の「ロイヤル・ソロ」車3両で、北斗星の個室率向上を意図したものでした。既に12両編成化は達成されていますので、この改造車の導入で通常の開放B寝台車に余剰が出ることになります。

この余剰車を利用して14系併結対応化改造を行い、「はまなす」への組込みを行なったのがこの91年7月でした。

これにより、「はまなす」間合い編成の「海峡」充当にあたり、編成組み換えの必要が出てきました。「はまなす」の青森到着後、青森運転所に引き込んだ同編成は、寝台車を含む<スハフ-オハネ>の2両を切り離し、<スハフ-オハ-オハ-オハ-スハフ>の5両を海峡に充当するようになりました。「海峡」運用の終了後、「はまなす」への充当前に再び寝台車ユニットを連結することになります。

この関係かどうか断言はできませんが、この年の3月改正で「海峡」の14系充当列車に変更が出ています。当初、朝の下りは1号から始まる運用に50系を、3号からの運用に14系を充当していましたが、これらを入れ替えて14系は1号から運用するように改められています。夜に青森に戻ってくる時間が早まるので、「海峡」が多少遅延しても、余裕を持って寝台車の連結作業が行えるようにとの配慮かもしれません。

1991年12月の14系配置

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14系定期列車組成表(1991年12月)

さらに5ヶ月後、12月時点の配置表です。初めてオハが減少していますが、これは北斗星の個室率向上のための種車に使えるオハネが払底したため、ついに座席車までもが種車として使われるようになりました。

この時制作された「ソロ」によって余剰が出た北斗星のオハネフを活用して、有名な「はまなす専用車」スハネフ14-550が誕生し、「寝台車ユニット」中のスハフを置き換えています。

1992年3月の14系配置

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14系定期列車組成表(1992年3月)

92年3月には「大雪」の気動車化と特急格上げが実施され、同時に「オホーツク」に改称されました。「利尻」の例と同様に気動車併結対応化改造とあわせて方転が行われています。これで、未改造の客車のまま残存する寝台車編成は「まりも」のみになりました。

オハの配置数は12月時点で未了だった北斗星向け「デュエット」化改造を計上して35両になりました。14系からの24系化改造はこれで終了し、以降の「北斗星」用個室車は余剰の24系開放B寝台車からの改造で行われるようになります。

1993年3月の14系配置

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14系定期列車組成表(1993年3月)

翌年93年には未改造のまま残存していた「まりも」の特急化と気動車化が行われ、初めてオハネに対しても気動車化改造が行われました。これにより、座席車は「はまなす「海峡」以外の定期運用を失っています。「海峡」編成の考察を行う上で、他の列車への充当数を気にしなくて良いのは助かりますが、いくらなんでも余り過ぎです。

この頃、それまで行われていたJR東日本の12系による臨時「海峡」の運転が終了した*5らしいのですが、この14系の余り様を見ればそれも頷ける話です。

1994年3月の14系配置

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14系定期列車組成表(1994年3月)

前年の改正で「まりも」運用から離脱したドリームカーが、93年5月頃から「はまなす「海峡」にも組み込まれるようになりました。側面の「MARIMO」のロゴも95年頃までそのまま残存していたことが知られています。

また、函館運転所の配置数が9両増加しています。

この頃の繁忙期の増結パターンは、札幌出発時点で「はまなす」に増結される「札幌増結車」と、青森で寝台車が切り離された後に函館で連結される「函館増結車」の2段階によってフル編成が組成されていたと思われます。今回の転属はこのうちの「函館増結車」を函館所属車で運用することを意図したものではないでしょうか。

1998年3月の14系配置

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14系定期列車組成表(1998年3月)

さて、一気に4年ほど飛びました。98年の配置表です。

96年末に座席車の余剰車が整理され、スハフ6両、オハ5両が一斉に廃車となりました。座席車の配置数では札幌より函館の方が多くなっています。

また97年に2段式のカーペットカーが登場しており、「はまなす」4号車、「海峡」2号車に連結されています。これ以降、「はまなす」の所定編成は「はまなす」廃止まで変化しませんでした。

2000年3月の14系配置

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14系定期列車組成表(2000年3月)

朝ドラとのタイアップで「SLすずらん」を運転するにあたり、14系から3両が専用客車として旭川運転所に転出しました。スハフが1両しかありませんが、反対側の編成端には「カフェカー」スハシ44が連結(後に連結位置が入れ替えられてオハ14 519に尾灯を取付け)されるなど、少し風変わりな編成でした。この「SLすずらん」運転開始直後の99年6月にスハフが1両廃車になっていますが、なぜすずらんに連結しなかったのか非常に不思議です。SL客車の両端がスハフで揃うのは、「海峡」廃止による余剰車が出るまで待つことになります。

2002年12月の14系配置

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14系定期列車組成表(2002年3月)

2002年12月、「海峡」の廃止に伴って座席車の配置数は大幅に減少しました。残るは引き続き「はまなす」に使用される車両と、気動車組込みの寝台車、そしてSL用客車です。表に3両残っている函館車も、翌年までに廃車されています(なおこのうち1両は例の1段カーペット車です)。

というわけで、長らく追ってきた14系配置の変遷もこれで終了です。ここで見てきた14系の運用の変化をもとに、冒頭の配置変遷表を再掲してみましょう。

配置表を考察する

冒頭に上げた配置の変遷表をもう一度見てみます。

オハ14形

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オハ14は、津軽海峡線開業時点では全車が札サウ(札幌運転所)に所属しており、特に形態差もなかったことがわかります。翌年1989年から、函ハコ(函館運転所)に転属するものや、ドリームカーに改造される車両が出てくるというわけです。

まず全数を見ると、1991年頃と1996年、2002年と段階的に減少(=廃車または他系列への改造)していることがわかります。1991〜92年の4両は、北斗星用24系個室寝台車への改造によるものです。

1996年の廃車は「大雪」や「まりも」の気動車化で余剰化した車両を整理したものと思われますが、それらの気動車化は92〜93年でしたので、すぐに廃車となったわけではなく、しばらく予備車として確保してあったことがわかります。

最後に2002年ですが、こちらは言わずもがな、快速「海峡」の廃止によるものです。1991年と1996年が札サウ車であったのに対し、2002年のものは全て函ハコ車であったことからも明らかでしょう。1段カーペット車513を除けば、この時函ハコに所属していた車両すべてが廃車または札サウに転属となって配置がなくなっています。

次に配置箇所についてですが、前述の通り津軽海峡線開業時点では札サウに集約されていたものが、徐々に用途別に分かれていきます。ただ、あくまでメインは札サウにあって、他の配置区のものは補助的なものという印象です。

先に釧クシ(釧路運転所)について挙げておくと、当該車両所には1990〜92年頃(あくまで4月時点の配置表なので厳密ではありません)という短い期間だけ、しかもオハ14は「まりも」用ドリームカーだけが配置されていました。おそらくこのドリームカー化は釧路支社が独自の施策として行なったもので、その関係で釧路配置とした……というのが私の仮説です。札サウに戻ったのはおそらく93年3月改正と同時で、「まりも」の気動車化で用途がなくなったためと思われます。「はまなす」への充当開始は同年5月からと言われており、5月のゴールデンウィークには集約臨などに使用されていたことがわかっています。*6

一方、札サウと並ぶ一大勢力を築いたのが函ハコです。1989年に8両が配置されてから、94年に倍の16両が、2000年には20両が配置され最大勢力となっています。この時点で札サウ所属のオハ14はドリームカー5両、カーペットカー2両と一般車2両で、むしろこの2両がどのように使用されていたのか非常に気になりますが、以前取り上げた『気動車客車編成表』を参照すると、スハフと組んで4両編成ではまなすの増結車として充当したり、基本編成の5両に1両を増結した6両編成を組成したりといった使われ方をしているようでした。予備車のないカーペット車の代走に使用したこともあったでしょう。なかなか興味深いところです。

スハフ14形

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続いてスハフ14です。オハと比較して車両数が少ないことや、電源供給車であるため短編成であっても必要不可欠であることなどから、オハ14と違って大量廃車が出たタイミングは1996年だけです。このとき6両が廃車されていますが、他に98年に1両、2002年に2両の廃車が出ているようです。それ以外は「はまなす」廃車まで残存しているので、スハフ14はオハ14と違って「海峡」廃止後も過半数が生き残ったことになります。

まず釧クシですが、オハ14の「ドリームカー」の所属と同じ期間に2両だけ配置があります。編成中1両組み込まれ、それが2編成分ですから計算が合いますが、予備車がありません。おそらく運用離脱を要する大規模点検では、札幌到着後に札サウ車に差し替えを行い、そのまま札幌側で検査を受けたものと思います。

一方札幌に次ぐ大規模配置区となった函ハコですが、オハ14ほどの配置は見られません。1989年に4両が配置されてから、94年にはオハの数が倍増していますが、スハフでは2両増にとどまっています。そして、その後2002年まで配置数に変化はありません。スハフ6両に対してオハ20両というのは、給電能力を見ると決して過大というわけではありませんが、短編成をたくさん組成するには足りません。快速「海峡」が後年の「はまなす」と比較して電源効率の良い編成を組んでいたことが伺えます。

この時点での札サウ車は6両配置ということで、間にカーペットカーとドリームカーを連結した基本編成を組成すると、残りは一般車オハ2両を挟んだ4両編成が1本作れるのみです。前述のようにその4両で増結編成を組成したり、バラして基本編成に組み込んで代走や増結をさせたり、といった使われ方をしていたのでしょう。

 

さて、ここまでダラダラと考察のような感想のようなものを続けてきました。当時を知らず、また詳細な資料にも乏しい以上、推測ばかりが並ぶ形になりますが、「なんとなくこんな感じに使われてたんだろう」というイメージが湧く気がします。

ここまで来るといよいよ本題の「14系快速海峡はどのような編成が組まれたか」という話になりますが、最近興味深い資料を入手できましたので、そちらの整理に再び時間をいただきたいと思います。

牛歩のようではありますが少しずつ「海峡」の編成についての研究(といえるほどでもないですが)を進めていきますので、ご興味のある方は気長にお待ちいただければと思います。

 

また、いつものお願いですが、何か資料をお持ちの方がいらっしゃいましたらぜひご連絡をいただけますと幸いです。

 

それでは、ひとまず今日はこれにて。

*1:はまなす 1988年3月分編成記録 - 北斗星24系客車データベースwiki

*2:仮に「はまなす」以外の各列車に2両ずつ増結を行った場合、28両中14両はそちらに使われる計算です。「はまなす「海峡」にはそれらを引いた14両から増結を実施しなければならず、予備車も必要なことを考慮すると5連2本程度が現界ではないでしょうか。なお個別の増結事例については次回以降改めて取り上げることにします。

*3:Nゲージ×実車 14系500番台(1) 寝台急行利尻など | 重単5175(Ameblo版),

KATO 14系500番台(2) 急行天北など [Nゲージ×実車] | 重単5175(Ameblo版)。私の愛読ブログの一つです

*4:1列車<北斗星1号>へのスハフ14の増結運用

*5:『鉄道ファン』93年9月号

*6:『鉄道ファン』93年9月号